神奈川県倫理法人会 研修副委員長、デザイン〜縫製 夢乙女 伊藤千鶴子 代表

職人として、実践実行で学ぶ

第718回 平塚市倫理法人会 経営者モーニングセミナー
神奈川県倫理法人会 研修副委員長、デザイン〜縫製 夢乙女 伊藤千鶴子 代表

実践と行動

50数年間悲惨な気持ちで過ごしてきた中で、その気持ちが救われ幸せな気持ちを手に入れる事ができました。とても大切な親への感謝など、「元を忘れず」の実践結果である。私が行ってきた事は実践であり、声を上げて17カ条を読み上げるだけで何も行動しない事には意味がありません。栞をみて素直にそれに基づいて何か一つでもできる事から実行する、それしかないと思い実践してまいりました。自らが実践して得たものがあると最高の喜びであると同時に自己変革に繋がります。

幼少期の私と家族

ここで簡単ではございますが私の自己紹介をさせていただきます。1955年2月9日秋田県秋田市の港町で産まれ2歳ぐらいまで母方の実家で暮らしており、母方の祖父は私が生まれる前までは自然の氷を港へ卸すという仕事をしておりました。歴史は古く七代目として行っておりましたが、私が生まれた頃より気候変動による地球温暖化がはじまり八郎潟の氷が取れなくなってきており製氷業への事業転換には多額の資金を投じる必要があったが、女系家族である事から後継者がいない為、事業の存続を断念した。

また、七代続いた稼業でもあり祖父はストーブの前でとても寂しそうであったとその印象を母から聞いておりました。その後、家庭では喧嘩ばかりでとても暗い家庭でしたが、そこで私が生まれ祖父はとても喜び、とても可愛がってくれたと聞いております。祖父の廃業後は洋裁の仕事を中心に事業を行っており、私が二歳の頃、ババコだよ、ババコだよと一間廊下を走り周り家庭内はとても明るくなったときいております。(ババコ=秋田の方言で排泄物)

家庭崩壊と憎しみ

しかし、そんな楽しい家庭も小学校6年生までであり、その年の春休みの前日に母と父が大喧嘩をして翌朝、父親が布団を担いで家から出ていき弟はまだ小学校3年生でした。私は何度も、何度も父親に出て行かないでとお願いをするも、私を振り返る事もなく忘れもしない父の最後の像であり、私の人生の大変な時期となりました。父親が出て行った後、母親が変貌していき口論が絶えず、その度に日記を走り書きのように母の名前を死ね!死ね!死ねと書き綴り憎しみが増えていきましたが、本当は母親が大好きでした。

母の仕事はデザイナーであり縫製職人を20名雇用しており秋田市でキノウチデパーにて販売にも携わっていた。毎日の業務内容は縫製職人が縫った商品を毎日品質チェクして翌日の作業の段取りをして帰るという日常でした。その時の母を尊敬してましたが、先生という立場の為、母親としては接する事はできませんでした。

大変貌した母

父親が出て行った頃の話に戻り、変貌した母がある日見知らぬ男性を家に入れ父と呼べと告げ、そんな事はできずより憎しみがより増してきました。そして先代からの土地を担保に多額の借金をする様になり、私が26歳に頃に洋裁を営む母の会社の経理に携わりより経営状況とその男性の金銭の感覚に疑問を覚える。

なぜなら、高級車にブランド品、二人で旅行ばかりで一週間も帰らずお金も使い放題であった。そして、縫製職人も一人減り、二人減りお店にも人が来なくなり、経営悪化に向かっていた。母が築いた会社だからなんと再建に奮闘しましたが、会社は破綻に向かい、私は母から離れたいと言う思いが強くなり結婚したら家から出られるかなと思うようになりました。

人生の転機

34歳で結婚、37歳と39歳で出産、二人の子どもを授かりました。結婚してから幸せな家庭を築いていこうとしましたが、母親との確執は旦那を巻き込むようなトラブルに見舞われ、結婚生活も破綻しその後、離婚という決断に至りました。その後、母親が病気となり、多額の借金があることも分かり、その借金も私が背負ってしまう事になりました。更に憎しみが増し、次第に私の人生を返して欲しいと思うようになりました。

しかし転機が訪れたのは2011年3月28日東日本大震災の年、子ども二人が就職と大学へ通う為、神奈川県へ移住する。そこで、子らが一緒に行こうと言う言葉に母の会社を辞め借金は背負ったまま神奈川県へ移住を決意する事なる。その際、親や親族、知人から親を姥捨て山に捨てて行くのかとなど避難されるもこの機会しかないと意思は固く54歳での決断をした。倫理法人会との必然的な出会い

神奈川県横浜市へ移住後は知り合いもなく縫製の仕事をする中、朝のモーニングセミナーへ誘いを受け参加し、知り合いも少なかった事から入会を決意する。そして、入会から8か月後に初めて倫理法人会の名刺を頂き、横浜市倫理法人会の周年式典で他単会の方と名刺交換をした際、名刺の名前を眺めとても良い名前ですね、誰がつけてくれた名前ですかと言う問いにそれは私が憎くて、憎くて恨んでいる母親でした。

その後は倫理指導の機会を頂き、先祖供養をするよう勧められ、既に他界している母でしたが、毎日手を合わせ実践の決意を始めました。一日目、手をあわせる、二日目も変化はなく、三日目、涙がこぼれ、一週間後、変化が現れ、100日後、母の夢を見て、その後、母への感謝が生まれ、どうしてこんな考え方であったのかと謝りました。その後も毎日手を合わせてていた時、不思議な体験をしました、例えると真っ暗闇のトンネルで光の射す方を目指し、その瞬間オレンジ色の光に包まれ、過去の呪縛から脱出できたような、何かが変化した、とても高揚な気持ちになりました。

それからは母の夢を頻繁に見るようになり、私が母を抱きかかえ腕をさすり、母がニッコリと笑い、お母さんありがとうと言って目が覚め、心が救われました。先祖に手を合わせると言うのはこういう事だったのかと改めて実感いたしました。現在は子ども達からもお母さん変わったねと言われ、とても充実した日々を過ごしております。

これも倫理法人会との必然的な出会いであると強く感じております。そして、皆さんも小さな事からでも良いの毎日、毎日積み重ねていけば、必ず変化が起き私の様に変われると思います。本日はありがとうございました。

小野 利隆 会員 記

平塚市倫理法人会経営者モーニングセミナー
平塚市倫理法人会経営者モーニングセミナー

コメント

“職人として、実践実行で学ぶ” への1件のコメント

  1. 恩を感じる力(感謝できる力)は、俗な言い方ですがトレーニングをしてこそ、はじめて身につくものだと思うようになりました。

    それには、日々、小さなこと、良い習慣を積み重ねていきたいですね!

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