新年最初のモーニングセミナーは、当会会員でもある平塚八幡宮で行いました。ここで正月最初のセミナーを開くようになって今回で4年目でしょうか。
宅野宮司を講師にお話を聞いてから、第二部として神殿でのお参りとなります。今年はお榊の代わりに願い事を書いた木片を献上いたしました。宮司のお話は、その後に奉殿するのでお参りにおいて大切なことをお話頂きました。
神殿は非常に寒かったのですが、厳かで緊張感ある雰囲気で非常に幸せな気持ちになりました。この平塚市倫理法人会に、地元で一番大きくて全国的にも有名な神社である八幡様が会員でいて下さるということは本当に幸せであるとしみじみ感じました。
こうして新年最初のモーニングセミナーの会場として使わせてもらい、お参りまでさせてもらう単会も非常に珍しいと思います。こんな処も平塚市倫理法人会の誇るべき宝ではないでしょうか。
1月2日 宅野順彦 宮司講話
あけましておめでとうございます。
「予定外のこと」というのは「不慮」と言ってよくないこと。
「予定通り」は大切なことで、祝詞のなかにもそういう意味の言葉が盛り込まれている。「神事」「お参りする」のは目に見えない神様、仏様、によく働きかけをすること。
まごころ、こうします、したい、してください、を玉串に心を込めて拝礼する。形だけを追ってしまいがちだが、神事とは「感謝」「祈り」「決意」という要素があって神様にお誓いする。という部分は自分にしかできない。「自分のこころ」はわかりにくいものがある。歳旦祭というのがあって、昨日の元旦の6時に八坂神社で催行したが、そこに御鏡があって、「鏡」は自分を良く見てみる。ということで自分がどういう心でお祀りに向かっているのか自覚させていただく。お参りはそれぞれ違うが、自分のもっとも良い姿を神様に見ていただく。
祝詞奏上は「感謝」「祈り」の部分は神様にお取次するために古い言葉で盛り込まれているが「決意」の部分はお参りする人にかかっている。
昨年を振り返ると2月に大雪が2回もあった。御池に掛かるように面白い枝ぶりの松の木があったのだが折れてしまい切る事になった。あたりまえに眺めていたものが消失することで先代の宮司が亡くなったときと同様の得も言われぬ感情が湧いた。その池には9月に山越村由来の鯉を放つ神事も行った。
11月には菊花展も行う。毎年の繰り返しも大切なことだが、少しづつ今までと違ったことも取り入れる。来る1月5日には筒粥神事も江戸時代以来の復活をさせる。どんな神事か解らぬことも多いが県内には3社の催行している神社もあり研究中。天皇陛下のお言葉で、神事について
昔から続いているものはなるべくそのままで、意図するものがわからないなら、そのまま。新しいものは、その意図する心を大切におこなう。というのがあって、なるほどその通りと思う。
昨今は神社をパワースポットなどという人たちもあるが全ては物の見方ではないのか?何もない場所と見るか、力のある場所と見るか?
この御殿も昭和3年に台湾ヒノキで作られた社殿であるが、良く考えると、そのまえ関東大震災で倒壊した社殿は建て替えられたばかりだった。そのまえは300年まえの築造だったと考えられ昭和3年の時には10年程度のあいだに2回も新築していたことになり当時の関係者のことを思うと、大変なご努力があったことが想像される。
そして1634年前に建立された神社であるということに思いを馳せるとき、何千人の方々が守ってこられたその事実に感慨深いものがある。そうした「大勢の方がかかわってきた」というこころで見てみると建物も違って見えてくる。
少しづつの力でも、少しづつ広がりやがて大きな力になる。目に見えないものに対する良い働きかけこころひとつで、生活も、社会も変えてゆくことができる。
まごころで「決意」を。
天の恵みという言葉があるが「恵」は私たちに向けて来ているものではない。
「自然」という言葉はしっくりこない。この場合「天地(あめつち)」のあいだで行われていることの副産物。大きな環の中で行われていることの一部分に私たちもある。
「自然」というと「外」から眺めている感覚。キリスト教などでは「神」と「人間」と「それ以外」=「自然」という感覚があるかもしれぬが、「天地」のなかに人もいる感覚。これから御殿にてお参りをしていただくが是非皆さんの「決意」をお書きになって神様の前にお供えください。
万人幸福の栞輪読 田中耕一相談役
会長あいさつ 篠ヶ瀬隆会長
会長挨拶では、丸山敏秋理事長の新年の挨拶を読み上げ今年度の方針を改めて確認し、決意を新たにいたしました。今日の粋な井筒屋さん 小林清幹事
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